あの日のこと 9
★夜
とにかく3月は寒かった。特に震災後の1週間は3月とは思えないほどの寒さだった。振り返ってみれば、寒かったから食べ物も傷まずに済んだのだが。そして、ご遺体も。
夜の寒さをしのぐのは大変なことだった。前にも書いたが、あらゆるものをかけた。しかし、まずは避難民優先。教職員は、そのあとで残ったものを使う。卒業式などで使う白布(細長くて普通にはかけられない。まきつけるように使う。)もかけた。寝る場所もない。床にそのまま寝たのではコンクリートの冷たさがじかに伝わり凍りそうになる。とてもじゃないが、床には寝られない。最初のうちは椅子に座ったまま寝る。というか寝られないが。
そのうち、支援物資が来て毛布が来たときの感激は忘れられない。それから、家からアルミシート(NASAでも使うらしい。)を持ってきてくれた教職員がいた。それも有り難く使う。ああ、温かい。普通に寝ることができる当たり前のことに感激する。
その後、本部となった多目的室の倉庫部分にある長机を収納する棚に寝る。幅はわずか50cmほど。それでも床に寝ないだけまし。案の定、寝ている間にかけている毛布が落ちるたびに目を覚ましかけ直す。
だんだんに避難民が減り、特別支援学級の畳が敷けるようになった。ああ、なんて快適なんだろう。(それでもまだ寒いのには変わりはないのだが。)
★訪問者
5日目だっただろうか。夜9時ごろ、職員室に荷物を取りに降りたら玄関で座っている人がいた。最初は避難民の方かと思ったが、何だか様子がおかしい。その晩は大雨で、その人もずぶ濡れだ。
「大丈夫ですか?」「…あ、いや、少し、このままま休ませてください…。」か細い声で話しているのは若い男性。「え?どうしたんですか?大丈夫ですか?」
話を聞いてみると、この男性は何と盛岡から自転車で石巻まで来たらしい。どうも武道を習っていてその師匠が市内・渡波に在住。あまりに心配になり、自転車で駆け付ける途中道に迷い、うちの学校にたどり着いたのこと。
とりあえず、本部に連れて行き着替えを提供。その後、温かいもの(インスタントのコーンスープだっただろうか)を飲ませて、ストーブに当たらせた。
それにしても、このあたりは仙台から歩いてきた(約50km)人や、雄勝から歩いてきた(約30km)人に出くわした。どちらも家族や親戚の安否を心配してやってきたのだ。その方々から道中の被災状況を聞き、暗澹たる気持ちになった。どこも大変な被災状況だったからだ。
★泥をかき出す
2,3週間経ったころだろうか。ようやくボランティアの協力によって校舎1階の泥をかき出す作業が行われた。とにかく匂いがひどい。それでもたくさんの人数がいるのはありがたい。被災の少なかった学校の先生方、避難所のみなさん、地域の皆さん、ボランティアで来てくれた皆さんで、一気に作業が進む。教職員も頑張るが、日頃の無理がたたって思うように動けないでいる。そんな職員を尻目に、がんがん作業する皆さん。有り難い、の言葉しか思い浮かばない。
2,3時間で泥はあらかた片付いた。まだ、細かいところには残ってはいるが。それでも、久々に見る校舎の床に、「おおお~!床が見える!」と感動した。
学校はきれいになってきた。私はそれ以前に自分の家の泥のかき出しに四苦八苦していた。(続く)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント