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2011年6月

2011年6月30日 (木)

あの日のこと 9

★夜

とにかく3月は寒かった。特に震災後の1週間は3月とは思えないほどの寒さだった。振り返ってみれば、寒かったから食べ物も傷まずに済んだのだが。そして、ご遺体も。

夜の寒さをしのぐのは大変なことだった。前にも書いたが、あらゆるものをかけた。しかし、まずは避難民優先。教職員は、そのあとで残ったものを使う。卒業式などで使う白布(細長くて普通にはかけられない。まきつけるように使う。)もかけた。寝る場所もない。床にそのまま寝たのではコンクリートの冷たさがじかに伝わり凍りそうになる。とてもじゃないが、床には寝られない。最初のうちは椅子に座ったまま寝る。というか寝られないが。

そのうち、支援物資が来て毛布が来たときの感激は忘れられない。それから、家からアルミシート(NASAでも使うらしい。)を持ってきてくれた教職員がいた。それも有り難く使う。ああ、温かい。普通に寝ることができる当たり前のことに感激する。

その後、本部となった多目的室の倉庫部分にある長机を収納する棚に寝る。幅はわずか50cmほど。それでも床に寝ないだけまし。案の定、寝ている間にかけている毛布が落ちるたびに目を覚ましかけ直す。

だんだんに避難民が減り、特別支援学級の畳が敷けるようになった。ああ、なんて快適なんだろう。(それでもまだ寒いのには変わりはないのだが。)

 

★訪問者

5日目だっただろうか。夜9時ごろ、職員室に荷物を取りに降りたら玄関で座っている人がいた。最初は避難民の方かと思ったが、何だか様子がおかしい。その晩は大雨で、その人もずぶ濡れだ。

「大丈夫ですか?」「…あ、いや、少し、このままま休ませてください…。」か細い声で話しているのは若い男性。「え?どうしたんですか?大丈夫ですか?」

話を聞いてみると、この男性は何と盛岡から自転車で石巻まで来たらしい。どうも武道を習っていてその師匠が市内・渡波に在住。あまりに心配になり、自転車で駆け付ける途中道に迷い、うちの学校にたどり着いたのこと。

とりあえず、本部に連れて行き着替えを提供。その後、温かいもの(インスタントのコーンスープだっただろうか)を飲ませて、ストーブに当たらせた。

それにしても、このあたりは仙台から歩いてきた(約50km)人や、雄勝から歩いてきた(約30km)人に出くわした。どちらも家族や親戚の安否を心配してやってきたのだ。その方々から道中の被災状況を聞き、暗澹たる気持ちになった。どこも大変な被災状況だったからだ。

 

★泥をかき出す

2,3週間経ったころだろうか。ようやくボランティアの協力によって校舎1階の泥をかき出す作業が行われた。とにかく匂いがひどい。それでもたくさんの人数がいるのはありがたい。被災の少なかった学校の先生方、避難所のみなさん、地域の皆さん、ボランティアで来てくれた皆さんで、一気に作業が進む。教職員も頑張るが、日頃の無理がたたって思うように動けないでいる。そんな職員を尻目に、がんがん作業する皆さん。有り難い、の言葉しか思い浮かばない。

2,3時間で泥はあらかた片付いた。まだ、細かいところには残ってはいるが。それでも、久々に見る校舎の床に、「おおお~!床が見える!」と感動した。

学校はきれいになってきた。私はそれ以前に自分の家の泥のかき出しに四苦八苦していた。(続く)

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2011年6月29日 (水)

あの日のこと 8

★トイレ

1週間ぐらい過ぎて、避難所も落ち着いてきた。支援物資が定期的に来たり他県の医療チームが来たり、少しずつ生活レベルが向上してきた。

問題はトイレだ。何せ水が流れない。それでもプールからみんなでバケツで水を汲み、流すためにトイレに8~9個置いておく。それでもかなり匂いがする。そのうち流れなくなって、どうする?というところまで来てようやく仮設トイレが設置された。我々の年代はくみ取りは経験があるが、子供たちはそうではない。使い方について養護教諭が張り紙をする。そう、ここでも養護教諭は活躍せねばならないのだ。

「最後にはトイレで困ります。」と簡易トイレの箱に書いてあった。その通りだ。これは経験から導かれた言葉だと実感する。

 

★安否確認

5日目ぐらいに余裕ができて、津波が来たときに学校にいなかった子供の安否確認をすることになった。5日目というのは遅いぐらいだが仕方がなかった。方面別に2・3人でチームを組み、家に向かう。頼りになるのは住宅地図と名簿。歩いて探す。会える子供はごく少数。それでも近所の人に教えてもらい、確認できることが多かった。

その日は、あと10名弱のところで日没。

それでもその後、学区外の避難所を回り確認を続けた。携帯がつながり始めたのもこの頃。私は、その途中で知り合いに会い、何人かの不幸を知る。

1週間してようやく全員の生存を確認した。よかった!あの津波で全員無事なのは奇跡に近い。

 

★卒業式

本当は3月18日に行うはずだった。相談した結果、29日に行うことになった。子供を何度も集めるのは危険なので、その日に終業式、離任式も行った。

準備は、毎日少しずつその日に出勤した職員で行った。会議も行っていないのに、「じゃ、ここに看板を貼ろう。」「証書のリボンも必要だね。」などと、気がついた人がそれを準備していた。みんなが卒業式をいいものにしようと一生懸命だったのだ。全員そろわなくても思いは同じ。それが、準備を充実したものにしていた。

当日。全員がそろった。もう、これだけで感動的だ。体育館が使えず、多目的室で行った。子供たちの服装はまちまちで、普段着の子もいればちゃんとしてきた子もいる。職員も同様。校長だけは礼服だったが、他はいい恰好じゃなかった。

ほぼ次第どおりに進んだ。震災前に一度だけ式の練習をしていてよかった。そして…。

式がすべて終わってから、職員全員で「贈る言葉」を歌った。本来は震災当日に行われるはずだった「先生方への感謝の会」で歌う予定だったものだ。私のギター伴奏で職員全員で心をこめて歌う。途中で涙がこぼれ、とまらなくなった。泣けて泣けてしょうがなかった。子供たちも泣いていた。いろんな思いが錯綜したのだろう。

こじんまりとした手作り感いっぱいの卒業式だった。これはこれでよかったのかもしれない。

 

これからは、学校の再開に向けて頑張らねばならない。(続く)

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2011年6月23日 (木)

あの日のこと 7

★職員の勤務

3日目になり、やはり職員も家族の安否を確かめなければ、ということになり、交代で自宅に戻ることになった。どんなに遠い人でも『徒歩』である。方面別にグループを作り、今日は渡波方面、次は門脇・大街道方面、次は蛇田・矢本方面、という具合だ。

私はとりあえず、震災当日に息子以外の安否は分かっていたので、最後に行くことにした。全く消息がつかめない職員に譲った形だ。小さい子供を抱えている職員の不安はピークに達しているのだから。

私の場合、幸いにも自宅に行く予定だった日の前日に、妻の同僚を家族にもつうちの職員が手紙を持ってきてくれた。見慣れた文字…。「お父さんも大変だろうけどがんばって。うちらは大丈夫だから。」部屋の隅っこに行って人知れず泣いた、泣いた。

そんなわけで、少し冷静に自宅に向かうことができた。そのあたりのことはまたあとで。

とりあえず全員自宅に戻って家族の安否を確認したあと、勤務の動態をどうするかを話し合った。何せ、夜はすることがない。時間はたっぷりある。

そして、3グループに分けて泊まりこむことにした。これが決まったのは、確か震災から10日後くらいだったと思う。1日24時間勤務して、2日休む。シフトを模造紙に書きこんで誰もが見えるようにした。そこでも、お互いの思いやりがあり、「あ、この日はいいよ。泊まれる。」「でもA先生、二日続くでしょ。」「でも、B先生は家も大変だし、休んだ方がいいよ。うちはたいした被害はないから。」「んじゃ、俺も泊まる。みんな避難所にいるし。」という配慮がなされながら、予定表が埋まっていく。

このころの私たちの仕事はもっぱら校舎内の環境整備と食事の準備だった。ようやく1階の水が引けて泥だけが残る感じだ。できるだけ、2階3階に泥を持ちこまないように、タオルをガムテープで固定し汚れを落とすマットを作ったり、相変わらずベランダで火を焚き300人弱の食事を作ったりしていた。

大きな避難所では自衛隊やボランティアが炊き出しをしてくれていたらしい。それも後になって知ったことだ。うちの学校のように中途半端に被災し、避難民もたいした人数でないとなかなか注目されないらしい。

それでも、震災当日やその後の2,3日に比べると食料も水も格段に多くなった。

★医療のこと

何といっても大変だったのは、避難民の方の医療である。養護教諭は震災当日から休む暇がないほどの忙しさだった。避難民には高齢者も多く、体調を崩しがちである。それを手持ちの少ない医療用品と優しい言葉で何とか助けていく。時々女性職員が交代するものの専門的なことになると出ていかざるを得ない。

そんな中でシリアスだったことがあった。2日目だっただろうか。一人のお年寄りが低体温で救護室に運ばれてきた。毛布で温めるがそれだけでは改善されない。緊張が走る。空にたくさんのヘリが飛んでいることに気がついた職員が、屋上へ行き運動会で使った応援旗を振って盛んにアピールする。私も含め、他3名が思い思いに目立つものを持って屋上へ。力の限り旗を振るが、ヘリは他の避難所の救助を行っているのか、ホバリングをしているだけで私たちには近づいてこない。そのうち、ある職員が拡声器を持ちベランダへ行き、「助けてください!救助が必要な人がいます!誰か自衛隊に連絡してください!」何度も何度も叫ぶ。しかし、応答はない。これを20分ぐらい続けただろうか。力尽きて別な方法を考えようと部屋に戻った。

だがしかし、ほぼ2時間後自衛隊が救助に来たのだ!応急手当てを施し、担架で運んで行った。あの叫びが功を奏したのだ。何でもやってみなけりゃわからない。

深刻な状態の患者は救助されたが、さらに体調を崩す人は増えていくのだ。(続く)

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2011年6月22日 (水)

あの日のこと 6

少し体調を崩してブログを休んでいました。すみません。

この間に、池田さんや野中さん、かつのりさん、田中さんにこのブログの紹介をしていただきました。たくさんの方に見ていただきありがたい気持ちでいっぱいです。コメントをいただいたみなさんへの返信もまだですが、もう少しお待ちください。

ブログの更新が滞ったもう一つの理由は、3日目から記憶が定かでなく、どの順番だったか思い出せなかったからです。ここからは、時間軸でなく取り組みごとに書きます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

3日目になった。

いい加減誰かが来てくれてもよさそうなものだが、支援するための誰かはまだ来ない。それだけ被害が大きいのだろう。

しかし、あきらめて腹をくくって、教員だけで何とかしようとすることにした。

★避難民への対応

まずは、部屋のリーダーを募り、これから様々なことはリーダーを通じて行うことを告げる。最初に行ったのは名簿の作成。どこの誰が避難しているのかを把握するためだ。ひっきりなしに訪れる人探しの人たちにも大切だ。このあと支援物資の配布もリーダーを通じて行った。振り返れば、この自治的な体制作りが避難所の落ち着きにつながっていたのだ。

子供たちへの対応は担任を中心に行った。特に、まだ迎えに来ない子どもの不安を取り除くことが一番だ。最後の子供は5日目にしてようやく迎えが来た。避難したところからどうしても動けなかったと言う。心配はいかばかりか。母親は無事を確認して号泣。とりあえず、ホッとする。

★通路を確保

水がある程度引いても、完全には引かない。通路を作るために体育館のひな段を並べる。これが意外に効果的だった。濡れずに出入りできるのはありがたい。それから、特別支援学級で使っていた畳も並べる。歩きやすくなった。

★自転車を調達

避難民の方にとっても職員にとっても自宅や親戚、友人の状態が気になる。しかし歩いて行くのはしんどい。自転車が欲しい。そこで、男性職員4人で道路の泥に埋もれている自転車を見つけに行く。幸運にも学校付近で3台見つかった。プールで泥を洗い落とし、修理する。パンクした前輪を他の自転車と交換したり、鍵を外したり、挙句の果てにはハンドルを交換し、何とか使える状態にした。これは貸し出し用として提供。本部に貸し出し名簿も作る。とても感謝された。

★炊き出し

5日目ぐらいだっただろうか。ある程度食料が充実してきた。しかし、パンやおにぎりだけ。やっぱり汁ものが欲しい。わが校のシェフK先生が腕をふるう。ベランダで火を焚き、おじやを作る。かまど担当は事務のI先生。どこからか、アルミの入れ物を見つけそこに牛乳パックを乾かすためのかごを入れて簡易かまどを作った。燃やすものは…。大きな声では言えないが算数教材の積み木や家庭科で使う麺棒など。「指導要録以外は燃やしていいぞ。」と冗談とも本音ともとれる校長のコメントに一同爆笑。しかし、この臨時かまどはこのあとしばらく活躍するのだ。このあと、食料が充実したタイミングでインスタントラーメンなどうれしいメニューを提供される。

しかし、大変なのは「洗い物」である。何せ飲料水以外で使うのはもったいない。幸いに消毒用のアルコールがたくさんあったので、それをつかってティッシュで拭きとる。当然手も洗えない。しょっちゅうアルコールを使うので職員の手は荒れ放題。

 

それにしても、この時の職員の団結力はすばらしかった。みんな率先して動く。今にして思えば、ただ単に夢中だったからかもしれない。落ち着いてしまうと不安だけが増幅するから…。

(続く)

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2011年6月15日 (水)

あの日のこと 5

長い夜が明けた。水はまだ引いていない。だが、快晴。校庭の水が光を反射してきれいに見える。

避難しているみなさんの様子は落ち着いている。そろそろ動きださねばならないと思っている雰囲気が感じられた。

まずは食料の確保だ。今のままではどうしようもない。「生協(近くにある)に行ってみれば何かもらえるかも。」ということで、男性職員6人で行くことにした。

どうやら川沿いの道は水が引いたようだ。そこまで行けば何とかなるんじゃないかという意見にまとまって行くことした。何も食べていないので、保健の先生から水と砂糖と塩をもらう。要はポカリスゥエットみたいなものだ。砂糖をひとつまみ、塩をひとつまみ、水をコップ半分ぐらい飲む。

「うまい!」口々にみんなが言う。そりゃそうだ。昨夜から何も食べていないのだから。

体育館を通って行くのが最善と思い、そこまで水の中を歩く。体育館は水こそないものの、大量の泥(ヘドロ)が厚さ10cm以上積み上がっている。そこの中をかき分け歩く。

ようやく川沿いの道にたどり着く。しかし、船が乗り上げていたり、がれきが積み上がっていたり、とても安全に通れるようではない。

行くしかない。

何とか通り抜け、堤防上のサイクリングロードを歩いて向かう。水がないところを歩くのは楽でいい。そんなことを改めて感じながら歩いていく。

1時間ほど歩いて、目的地付近に到着。唖然とする。完全に水没している。腰までは水がある。行こうとしていた生協付近はもっと水があるようだ。どうしようか。無謀な私は行くしかないと思い、川になっている道路に向かう。しかし、突然足元がなくなる。

「うわっ!」と思った瞬間、首までつかってしまった。そして引き返す。「やっぱ、無理だね。」「消防署に行ってみる?」

そこから10分ほど歩き消防署へ。

たくさんの人々が慌ただしく行きかっていた。1階ロビーで食料を配布していた。ラッキー。そこで、なんとか頼みこんでお菓子をもらう。しかし、もらった量は少し。避難している全員には行きわたらないだろう。それでもないよりはましだ。それを抱えて学校に戻る。

学校に戻ると、各部屋の名簿作成をしていた。何人いたのかは記憶が定かではないが、だいたい380人ぐらいだっただろうか。

子供たちの迎えも結構来た。それでもこの日に迎えが来なかった子もたくさんいた。不安な気持ちを慰める。

濡れてしまった体を避難所にあるストーブで乾かす。「ご苦労様です。」と避難所の方に声をかけられる。しかし、ある老人が「食料とってきたんだろ。早く渡せ。」と言ってきた。一瞬「え?」と思った。がっかりした。こんな思いをして持ってきたのに、そんな風に言われるのだろうか。ものすごくがっかりした。極限状況ではみんな自分のことしか考えられないのだろうか。

あとで、この老人は軽い認知症であることが分かったのだが、それでも私は自分の置かれている立場(公務員として全体に奉仕する)を、改めて認識したのだった。

そして、2日目の夜を迎える。

相変わらず寒い。本部の寒さをしのぐために何かないか考えた。そうだ。理科室のアルコールランプを使おう。段ボールの中にアルミホイルを貼り、中にアルコールランプを4つ置く。

「おお~!あったかい!」心の底からわき上がる。

この日も椅子に座ったまま、寝る。しかし、眠りは浅い。度重なる余震のたびに、ハッと起きる。これ以上の被災は勘弁してほしい。

ラジオからの震災の状況報道で昨日よりもさらに被害が明らかになっていく。大川小学校の被害もこの時聞いた。どこまで続くのだろう。(続く)

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2011年6月14日 (火)

あの日のこと 4

震災の記事をたくさんの方に見ていただいているようだ。今後、学校で被災した時の参考になればうれしく思う。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

だんだん寒くなってきた。ラジオに耳を傾けながら、次は何をすればいいか考える。

寒くなってきたので、敷くもの、かけるものが必要だ。

行事で使うじゅうたんがあることに気がついた。それを体育館に取りに行く。このころには、職員だけでなく保護者の方も手伝ってくれるようになっていた。また、水の中を体育館へ行く。幸いに倉庫の上の棚に置かれていたじゅうたんは無事だった。それを運ぶ。じゅうたんは結構重い物だが運ぶ人数が増えていたのでそれほど苦にならない。

「式で使うじゅうたんですが長過ぎて。」「じゃ、切ろう。」校長先生の指示で切って、それを部屋に敷くが全ての部屋にはいきわたらない。

次はかけるもの。何かないか。

「あ、カーテン!」「暗幕もある!」誰かが気が付き、みんなで取りに行く。理科室でカーテンをはずしながら、「まさか、こんなことになるとは思わなかったね。」「いつか、笑って『あの時、こうやったよねえ。』って思い出す時が来るよ。」「震災乗り切ったね飲み会をしなくちゃね!」なんて語り合う。

運んで行くとある部屋では、あまりの寒さに模造紙をかけていた。それは、私がワールドカフェを授業でするために、日本製紙の知り合いに頼んで大量にもらっていた「やれ紙(製品にならないアウトレット)」だった。こんなときに役に立つとは。

 

夜の12時を回った。

本部にいた私は少し休んでいた。ラジオに耳を傾ける。気仙沼では火災が起きているようだった。気仙沼は私が初任地で5年間住んでいたところだ。あの時の教え子たちは、同僚はどうなったんだろう…。

そして、引き渡した子供たちはどうなったんだろう。あのタイミングで帰ったのでは巻き込まれていても不思議ではない。大丈夫か…。

 

6時頃だっただろうか、幸いにも妻の無事はメールで確認できていた。また、母親と娘は近くの中学校に避難したと東京の姉からメールが来ていた。メールが来るまでのタイムラグが大きいのでどの時点でのことかわからないが、とりあえず地震が起きた時には無事だったようだ。

しかし、返信しても何も返ってこない。小学校にいるはずの息子はどうなんだ。ここまで来て急にドキドキ感が高まる。妻のその後も気になる。まさか、息子を迎えに行って津波にあったのでは…。情報が全くないので、焦る気持ちだけが先走る。

それは他の職員、避難者も全く同じ。

何かしていればいいのだが、じっとしていると悪いイメージだけが頭の中を回る。 

 

窓の外を校長先生と眺めながら「門小はどうだったんでしょうね…。この火がこっちまで来たら、どうやって避難しましょう。」「それはずっと考えている。水も深いし…。」

そうだった。一番きついのはトップだ。瞬時の正しい判断が求められる。家族のことも心配だろうが、まずはここにいる人のことを考える。表情はいつものように穏やかだったが、いろいろなこと、私が思いを巡らせないようなことも考えているのだろう。管理職はそういう役割をどんなときでも果たさねばならないつらい立場なのだ。

とりあえず、寝ることになった。何も食べていないし、何も飲んでいない。しかし、体力を温存しなければならない。椅子に座って寝る。いや、寝ようとしていた。本部には当然暖房はないので、ものすごく寒い。持っている衣服の全てを着て、かけられるものはありったけかけて寝る。

私はこの時点でも、漠然と「明日になれば家に帰れるかな。」などという甘い考えをもっていた。しかし、被害は私の想像をはるかに超える大きいものだったのだ。(続く)

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2011年6月13日 (月)

あの日のこと 3

3月11日の夜がやってきた。

子供たちも含め避難している人たちはすべて3階の教室にいる。廊下にいてもどかしげに過ごしている人もいる。一番気になるのは子供たちだが、家族が迎えに来なかった(来れなかった)子供たちもとりあえず落ち着いている。

この日はとにかく寒かった。雪が降るくらいだった。幸いにうちの学校には電源を必要としないストーブが3つあった。いや、この時点では1つしか使えなかった。残りの二つはどこか。体育館にある。それを取りに職員で向かう。

体育館は当然ながら浸水している。通路はもっと水深が深い。腿まで水につかりながら何とかたどり着く。暖房が入っている倉庫に向かう。しかし、中にあった数々の備品が倒れたのでドアが開かない。20cmぐらいの隙間からなんとか入る。あかない原因は行事等でよく使う長机が崩れたためだ。それを直している最中に別の長机が倒れてきて、私の頭をしたたか打ちつける。「大丈夫!?大丈夫?J先生!」「大丈夫!」こんな時は痛みは感じないものだ。その後、ドアを開けることができ、3人の職員でぎりぎりのところでストーブ二つを取りだした。それを面積の広い二つの教室に運ぶ。

次は明かりだ。

確か理科室にろうそくがあったはず。それを取りに行く。あった。実験用なので大きいものはないがそんなことは言ってられない。それを家庭科室にあったボールに立てて火をつける。

それから懐中電灯。1階の職員室に取りに行く。水はこの時点でひざ下から足首ほどに引いていた。あったはずの場所にない。落ちて水没していたのだ。残った2つのを持っていく。しかし、電池はどうする。

「あ、理科の実験で使ったものを家に持って帰ってない子どものものがあるかもしれない!」と気がついた担任の一言で、一瞬笑いが起きた。「だらしないのも、こんなときに役に立つな!」この日、初めて笑ったかもしれない。それを持ってきて懐中電灯に入れる。本部は明るくなった。「○○○くんのおかげだな。」「あとでほめといてね。」忙中笑いあり、だ。

この時点で6時をとっくに過ぎていたと思うが定かではない。

次は食事が心配になる。当然のことながら、備蓄はない。職員室にあるお菓子を集めてくる。それから、6年担任が「感謝の会のために作ったカップケーキがある!」と気がついた。それも集めて、どれぐらいずつ配分できるか相談。まったく足りるはずもない。

「せんべいは1枚ずつ、カップケーキは4分の1ずつ、とりあえず子供たちとお年寄り優先で。」ということになった。それを渡しに行く。それぞれの部屋を回って説明しながら配布。当然大人の分はない。しかし、誰も文句は言わない。すごいな、日本人。

水は高架水槽のためわずかながら出る。しかし、今後に備えてなべやボールに汲んで蓄えておく。これは女性の先生が率先してやってくれていた。

本部ではラジオだけが頼りだ。私たち自身もこの災害の全容を知らないのだが、この時点では誰もそのすごさを知らない。ラジオの報道も、入ってきた情報をそのまま流しているだけだ。仙台市の荒浜で300人もの遺体が打ち上げられているとの未確認(?)情報も流れる。誰もが言葉を失う。

そのうちに門脇では小学校が炎上しているとの情報も流れる。確かに学校の南側の窓からは山の稜線の向こうの雲が赤く染まっている。

皮肉なことに、この火のおかげで教室は明るく照らされている。何てことだ。(続く)

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2011年6月12日 (日)

あの日のこと 2

津波がやってきた。第一波は1時間後ぐらいだっただろうか。そのあたりの記憶は定かではない。

校門前の道路に水が流れてきている。海からの波が北上川を遡ってきたのだ。本校は川からわずか50m程度の位置にある。しかも、堤防はない場所だ。

2階にいた私は教頭からの指示で、昇降口を閉めに行く。閉める前に校庭に水が入ってくるのが見えた。大きな流れではない。海水浴場で波が打ち寄せる程度の高さだ。しかし、流れが速い。あっという間に校庭を覆い尽くす。

水位はどんどん増していく。

2階に上がり校舎裏の駐車場を見る。車が流されていく。あっという間に水位は上がり川のように道路を流れ、民家の1階を飲みこんでいく。

たまたま授業での子供の様子を撮るために持っていたデジカメで撮影する。未曽有の災害だとこの時点で認識した。記録が必要だ、と感じていた。

 Dscf1064s

災害対策の本部を2階の多目的に置くことになった。どこかの教室からラジカセを持ってきた。担任たちは3階教室の中で子供たちの世話をしている。保護者も、地域の住民もいる。あとでわかったことだが、この時点で400名近い。

第一波がおさまったころ、校庭にある植物観察用の丘に誰かが取り残されていることを子供が発見した。「あそこに誰かいる!」高齢の方のようだ。

拡声器で声をかける。「大丈夫ですか!!」「寒い、寒い!」かすかに声が聞こえる。すぐに救助に行こうとするが、校長が第二波を警戒し、少し待ての指示。

いらいらしながら待ち、落ち着いたと判断し、GOサインが出る。

私ともう一人の職員で向かう。しかし、水が深い。確実にひざよりは上。場所によってはもっとある。水のため地震での陥没も見えない。自分たちがよけいなけがをしないように、地面をさぐりながら体育館の壁沿いに向かう。ものすごく冷たい。足首だけが使っても頭のてっぺんまで寒さがしみわたるほどだ。

真中まで来たあたりで、学校を目指して避難中の近隣の住民の一人がそちらに到着していた。流されてきた冷蔵庫に取り残されていた人を乗せて移動し始めた。ちょうど船のように使うことができていた。途中で合流。一緒に押しながら校舎へ向かう。その方は全身ずぶぬれだった。何とか校舎まで連れて行く。とりあえず無事であることにほっとする。

Dscf1065s

その後1時間ほどして第二波がやってきた。(正確には第三波だったのかもしれない。)プールのフェンスをなぎ倒す。校門の鉄製の柵も流される。水位がまた増していく。

避難している人々は家族の安否を確認しようとしているのだが、携帯は一部、一瞬しかつながらない。それでもわずかでもつながったからこの日はまだよかったのだ。

重苦しい雰囲気のまま、夜がやってきた。(続く)

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2011年6月11日 (土)

あの日のこと 1

震災から3カ月。

いつか、あの日のことを書かかなければならないと思ってきた。

これからのためにも、このことを振り返り、記録として残しておかなければならないだろう。

 

◇◇◇◇◇◇◇

 

「ごくろうさまでした!」

「ヤマト発進!」シュッ!(ポーズ)

昇降口の掃除が終わり、笑い合いながら反省会を終え、私は職員室へ向かう1階の廊下を歩いていた。

そして、あの瞬間、2時46分がやってきた。

 

今までに体験したことがないような激しい揺れ。思わず廊下の壁に手をつく。

電源がショートしたのか火災報知機が校舎中に鳴り響く。

職員室前を掃除していた4年生5・6名が玄関前でうずくまっているのを見て、そこへ急ぐ。

「大丈夫!すぐにおさまる!」

広いとはいえない玄関ホールの中央に子供たちを移動させてから、建物がゆがんでドアが開かなくならないようにするため、玄関ドアを全開にする。

まだ揺れる。廊下や1階教室の電灯が消える。

玄関にある大きな柱時計が倒れてガラスが飛び散る。足でガラスを壁側に寄せ、通路をふさぐ柱時計も壁に寄せる。

 

この日は、6年生による先生方への感謝の会が予定されていたのでいつもより下校時間が早い。しかし、幸いにも子供たちはみんなまだ校舎内にいた。

校庭に地割れがある。しかし、それほど大きくはない。

「校庭に避難ですね!」職員室にいた校長・教頭に確認し、(停電のため校内放送が使えず)拡声器を持って2階、3階へ走る。あれだけ大きい地震だったにもかかわらず校舎内の損壊はない。運がよい。

「地震があったので校庭に避難します。先生方の指示に従ってください。訓練と同じです。いつもどおり避難してください。」努めて冷静に話す。

各教室にいた子供たちが、誘導されながら階段を下りてくる。泣いている子供に「大丈夫だよ。急がなくていいよ。ゆっくり下りて。みんな一緒だから。」と声をかける。

その後、職員室へ行き出席簿を探す。どこだ。どこだ。焦る。あった。それを抱えて校庭へ走ろうとしたが、筆記用具がないことに気づき職員室へ引き返す。筆記用具がなければ引き渡しのときに名簿のチェックができない。参観日の名簿チェック用の鉛筆を箱ごと持って校庭へ走る。

全員が避難できていた。ほっとする。雪が降ってきた。子供たちの、先生の頭に雪がうっすらと積もっている。すぐに担任の先生に出席簿と鉛筆を渡す。

校庭には、保護者がぞくぞくとやってきた。30~50名はいただろうか。

ここで津波警報が出ていたのか、出ていなかったのかは記憶にない。しかし、津波を警戒して校舎へ戻り引き渡しを行うことにする。中には「早く、(子供を)渡してくれ!」といった大声も聞こえる。子供たちが校舎に戻ったころ、地域住民が校舎に避難してきた。教頭の指示で、私は玄関で案内をする。

「どうぞ、靴のまま上がってください。3階教室に行ってください。」

このフレーズを何度も繰り返す。

足の不自由なお年寄りの手助けをしたり、親と一緒に帰る子供に「気をつけてね!」と声をかけたりする。

少し落ち着いてきたころ、津波が市内のどこかに来たことを告げる防災無線が聞こえた。少しどよめきが聞こえたが、これまで幾度となくこうした(津波警報があっても津波被害はほとんどない)ことがあったので、どこか他人事のような雰囲気もあった。

しかし、ついに津波がやってきたのだ。(続く)

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2011年6月 6日 (月)

新ネタ

久々の新ネタです。

授業でも、朝の会、帰りの会でも使えます。

 

がやがやとしてる教室。

前に立ち「お話をします。」と真面目な顔で言います。

すると子供たちは姿勢をよくして話を聞く態度になります。

普通はここで指示を出したり、説明をしたりしますね。

これは普通。

 

「お話をします。」

シャキッ

「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが…。」

「え~なんだよ、それ~(爆笑)」

 

これだけです。

でも、おもしろいです。笑えます。

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2011年6月 2日 (木)

次に投票する気になりますか?

怒りを通り越してあきれるしかない。

日本の政治のことである。

根本的に間違っている。

誰のための政治なのか。

震災という極限状況での政局なんてありえない。

ぜひ納得できるような説明をしてほしい。

次にまともに選挙に行きたくなるだろうか?

次の国政選挙で投票する気になりますか?

どこの党に投票する?

今の状況はありえない。本当にありえない。

早いとこ地方分権にしようよ。

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