学習問題考その3
学習問題について、3回目です。
前回は、北俊夫先生の分類に基づいていたのですが、今日は違った視点から。
違う視点というのは、答えが収束的なのか拡散的なのかということです。
例えば、事実追究型であれば、答えは自然と収束していきます。事実を調べていくわけですから、当然そうなります。
論理追究型では、社会事象の因果関係を調べ考えるわけですが、一つにならないにしてもある程度の方向性はあります。そういう意味では収束的。
実は私が新しい型ではないかと考えている選択追究型でも、収束的になる場合があります。
例えば、「工場はどこに作るか」というものでは、ある事由に基づいて選ぶ場所が決まってくる。収束的です。工場立地の条件はある程度決まってますから。
しかし、「鎖国で得をしたのは誰か」とか「江戸幕府が長続きした理由として、対大名政策、対民衆政策、対海外政策のどれが最もよかったのか」(この通りには提示しませんが)では、ある程度拡散的になる。ランキングをする場合もそうかもしれません。
また、「明治になって、海外の文化や技術、政策を急に取り入れるのであれば、鎖国をしなかった方がよいのではないか。」というのもそう。その人の見方によるわけですから。実際研究者の考え方だって、まちまち。
意思決定型は完全に拡散的。
「自衛隊の海外派遣を続けた方がよいか」とか「日本の食料自給率をあげていくにはどうすればよいか」とかのように未来志向型ともいえる学習問題は、どれも正解で、逆にどれも不正解かもしれない。
「地雷をなくすことはできるか」だと、「なくすことはできない」に傾いちゃったらだめですよね。「なくせない」が見方として不正解ではないにしろ、子供にそう思わせてはいけません。むしろ、「なくしていくにはどうすればいいのか」が自然。
と、考えていくと、収束的か拡散的かで学習の終わり方・まとめ方(落とし所という表現かもしれない)が変わってきます。
収束的であれば共有化がスタンダードですね。発表し合うとか、先生が確認するとか。
拡散的であれば、考えの検討が必要になってきます。討論まで行わないにしても、それなりにそれぞれの考えを事実に照らし合わせて吟味することなしで終わらせることはできません。
分類自体が正しいとか正しくないとかの議論ではなくて、「どういう学習問題で、どう活動させて、どう終わるのが子供にとって最も有効な学習になるのか。」ということを考えています。
そういう意味で、学習問題の型を分類して授業を構成していくことが大切かなあ、ということです。
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