さて、だいぶ時間がたってしまいましたが、先週の木曜日の指導主事訪問での授業について書きます。
発問は2つ。
一つ目「ピーターが来たことで、考え方や行動が以前と変わったのは誰でしょう?」
「いずみ」「近所のおじいさん」「クラスの人たち」「友樹(ぼく)」「病院の人たち」などがあがりました。本文から根拠を出すようにしていたので、挙げた理由についても言ってもらいました。
いずみ:「これからは、ポレポレでいく。」と言っている。
近所のおじいさん:スワヒリ語で挨拶をしている。
クラスの人たち:遅くなったときに「ポレポレ」とごまかしたり、「ポレポレ賞」をあげたりしている。
友樹(ぼく):休み時間にピーターと話したことがきっかけで、いつも一緒にいるようになった。
病院の人たち:スワヒリ語で挨拶している。
ねらったところが出ています。
次の発問「『ぼく(友樹)』は変わったのだろうか?」
これについては意見が分かれました。これについて討論が始まりました。はっきりとした文章表現がないからです。「変わっていない。」と言った子はまさにこの点を指摘しています。「変わった」とする子は前述の「ピーターと一緒にいるようになった。」と言うことを理由に挙げています。でも、これでは不十分です。
ここで、「教科書には書いていないけど、ぼく(友樹)はきっとスワヒリ語を教わったりしているだろうから、変わった。」と書いたこの意見を取り上げました。ポイントは「教科書には書いていないけど」というところです。
この点は、私が「読みを深める」ための視点として考えていたことです。「この記述から、おそらくこういうことが考えられるだろう。」という読み方です。
時間が迫っていたので、このことを話しました。
「『ぼく』は運動が苦手なので、ピーターの誘いを断っていますね。このことから、『ぼく』はどんな子供だと想像できますか?」「おとなしい」「弱気」などがでました。「でも、いずみが行方不明になったときに、お母さんが止めたのに探しに行っていますよね。このことから、『ぼく』が変わったかどうか、わかるのではないですか?」
だいぶ強引でしたが、教科書にはっきりとは書かれていなくても、そこから想像して読むことを教えました。
正直、難しかったのだなあと感じました。気づきにならず、結局、教えこみになってしまいました。反省。まだまだだなあ>自分。
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